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Biography

1951-1976年

フレットレスベースを自ら開発。十代で確立した奏法がジャズで開花。

1951年12月1日ジャコ・パストリアス(本名ジョン・フランシス・パストリアス三世)はペンシルバニア州ノリスタウンに生まれる。7才でフロリダのフォート・ローダーデイルに移住。祖父は軍楽隊のドラム軍曹、父もシンガー&ドラマーとして生計を立てていたこともあり、ジャコが最初に手にした楽器はドラムだったが、フットボールの練習中に右手首を負傷。ドラムをプレイするには致命的なダメージを受け、13才でベースに転向する。

17歳にはベースを完全に弾きこなすまでに上達しており、18歳になるとウッド・チャック名づけたオルガン、ベース、ドラムからなるバンドを結成。ここから本格的な音楽生活に入る。人口ハーモニクスといった奏法の発見、フェンダー・ジャズベースとアコースティック360ベースアンプとの出会い、ロトサウンドのラウンドワウンド弦を一度熱湯に通して使用するなど、満足できるサウンドの追求に余念がなかった。

19歳にはその後のサウンドの方向性を決定付けたフレットレスベースを自ら製作する(ジャズ・ベースのフレットを抜いてエポキシ樹脂で指板を保護する加工を行った)。その頃、ブラスセクションを擁した大所帯の地元R&Bバンド、トミー・ストランド・アッパー・ハンドでベースを担当。20歳には後の活動に大きな影響を与えることになるウェイン・コクラン&CCライダースに加入。テクニックだけでなく作曲・アレンジにおいても早熟ぶりを発揮していた。

22才には、マイアミのクラブ「バチェラーズIII」の専属バンドに雇われ、ビッグ・バンドのホーンアレンジメントなどに磨きがかかった。このバンドは後に結成されたジャコ・パストリアス・ビッグ・バンドでトロンボーンを吹いていたピーター・グレイブスが音楽監督を務めたバンドだ。この頃、マイアミにやってきたジャズサックス、トランペット奏者アイラ・サリバンとも演奏し、ジャズへ傾倒することになる。23歳にはジャコの初レコーディングとされるR&Bシンガー、リトル・ビーバーのアルバム『パーティ・ダウン』の録音に参加。

レアなグルーヴ感覚を身上とする独自のベーススタイルを確立しつつあったジャコは、やがてジャズへ傾倒、サックス奏者アイラ・サリバン、トロンボーン奏者ピ-ター・グレイブスなどとプレイするようになる。そのころサリバンは、マイアミ大学でジャズクリニックを開いていて、よくジャコを同伴させた。これを機にジャコはマイアミ大で週二回個人レッスンをするようになり、大学で知り合ったパット・メセニー、ピアニストのポール・ブレイ、ドラマーのブルース・ディトマスらと知り合い、いくつかの曲を録音したが、そのセッションもリリースされている。

1975年ブラッド・スェット&ティアーズがツアーでフォート・ローダーデイルを訪れていた。このバンドのドラマー、ボビー・コロンビーがジャコと出会う。コロンビーは後にデビュー作のプロデューサーとなる人物だが、彼は偶然にもジャコの妻、トレイシーをナンパしようとしたのがきっかけで、ジャコを知ることになったのだ。コロンビーはトレイシーから自分の夫がベーシストだと紹介され、冷やかし半分でジャコの演奏を聞きにいったが、その演奏を聴き、超人的なテクニックに衝撃を受けた。

単なるミュージシャンとしてだけでなく、大手レコード会社EPICからプロデューサーの立場で活躍していたコロンビーは、早速ジャコにEPICのオーディションを受けさせた。ジャコはオーディションでも皆を驚嘆させ、デビュー盤のリリース契約をとりつける。その録音から2ヵ月後、ジャコはパット・メセニーとドイツに渡り、メセニーのデビュー盤『ブライト・サイズ・ライフ』の録音にも参加。1976年ジャコは『ジャコ・パストリアスの肖像』によりメジャーデビューを果たした。

1976~1981年

ウェザー・リポートへの加入で栄光を極めた70年代後半の活躍。

ボビー・コロンビーに会う以前の1975年に、ジャコはツアーでマイアミを訪れていたウェザー・リポートのジョー・ザヴィヌルに会っている。自身のデビューアルバム『ジャコ・パストリアスの肖像』と、パット・メセニーのデビューアルバム『ブライト・サイズ・ライフ』をレコーディングする数ヶ月前のことだ。「自分は世界最高のベーシストさ」「オレは以前からあんたのファンだったよ」ジャコはザヴィヌルしつこくアプローチしていた。ザヴィヌルはジャコの執拗なセールスに根負けし、デモテープを預かることとなった。

当時ウェザー・リポートのベーシストはアルフォンソ・ジョンソンだったが、その脱退が決定的となったとき、制作中のアルバム『ブラック・マーケット』は未完成だったが、このころ、ジャコはザヴィヌルに手紙などで連絡をとっていた。その甲斐もあってザヴィヌルはジャコのデモテープを何度となく聴き、ウェザーリポートのもう一人の主要メンバーであるウェイン・ショーターとジャコがアルフォンソ・ジョンソンの後任に相応しいかどうかを相談していた。

ザヴィヌルはデモテープに録音されたジャコのベースがアップライトベースだと思い込んでいたからだ。ザヴィヌルは「きみはエレクトリックベースも引くのかい?」ジャコに尋ねたという。ジャコの演奏はエレクトリックベースであることを知ったザヴィヌルは、未完成だったアルバム『ブラック・マーケット』への参加を打診する。 アルフォンソと入れ替わる形で録音に参加。ザヴィヌルは以前自分が在籍していた恩師キャノンボール・アダレイに捧げた「キャノンボール」と、ジャコのオリジナルナンバー「バーバリー・コースト」の2曲を録音。以降ウェザー・リポートのメンバーに加わった。

ジャコの加入でR&Bやロックのテイストを取り入れたサウンドは、それまでジャズに関心を示さなかった若い白人たちにも受け入れられ、アルバム『へヴィー・ウェザー』は、ビルボード・ジャズ・チャートで一位を獲得し成功を収める。1978年には『ミスター・ゴーン』を発表。このアルバムからピーター・アースキン(ds)が加入。以後ウェザー・リポート史上最もパフルなリズムセクションが誕生した。

ジャコはウェザー・リポートでの活動と並行して、カナダ出身の女性シンガー、ジョニ・ミッチェルと親交を深める。彼女は70年代初頭からジャズミュージシャンを起用してのレコーディングが多い。ジャコとはよほど相性が良かったのか、発のコラボレートとなった『ヘジラ』以降4枚ものアルバムに起用している。中でもジャコのほかパット・メセニー、マイケル・ブレッカー、ドン・アライアス、ライル・メイズが参加したライブ盤『シャドウズ・アンド・ライト』は傑作だ。

1981年ウェザー・リポートは、ファーストアルバムと同様に自らのグループ名をアルバムタイトルにした『ウェザー・リポート』を発表。このころからザヴィヌル主導によるアルバム制作でジャコとアースキンの影が薄くなってゆく。ジャコはソロ契約をしていたEPICからワーナーに移籍した。このことはウェザーリポートと契約を交わしていたCBS/COLOMBIAを激怒させた。

1981年ジャコは満を持してセカンド・アルバム『ワード・オブ・マウス』を発表した。スティール・ドラムと大編成のブラスオーケストラ。それは往年のビッグバンド・ジャズとは明らかに異なるサウンドを創出した。日本ではジャズ専門誌主催の賞を獲得する人気となったが、本国アメリカでは5万枚程度のセールスにとどまった(ジャコの正規のリーダーアルバムは、デビュー盤とこの『ワード・オブ・マウス』のみである)。

1982年ジャコは自分のバンド活動を本格化させるため、ザヴィヌルのもとを去った。ジャコとともにウェザー・リポートを支えてきたピーター・アースキンも脱退する。

1981~1987年

ドラッグに溺れ入退院を繰り返す。それでも続けた音楽活動。

ウェザーリポートに加入した頃、ジャコはとてもクリーンな環境の中にあった。アルコールも飲まずに音楽に打ち込む青年だったが、ウェザー・リポートの活動と、ジョニ・ミッチェルのほか、多数のセッションへの参加で多忙を極めた70年代後半から徐々にドラッグに染まっていった。アルコールの量も増え、それがドラッグ中毒を招いた。

ジャコの中毒症状は83年以降、悪化の一途をたどる。二枚のソロアルバム、ウェザー・リポートでの活躍により、スターダムにのし上がったジャコだが、自信過剰な性格とは裏腹に、周囲が作り上げ、一人歩きする“ベースの天才、ジャコ・パストリアス”というものに対して、プレッシャーを感じていたという。

ドラッグ欲しさにベースを売ってしまうほど貧困となったジャコは、一時ホームレス化していた。好きだったバスケットボールコートで一日を過ごすことも多かった。

彼からどんどん仲間が離れていくが、演奏活動をしなかったわけではない。小編成となったワード・オブ・マウスは、固定メンバーのない形で活動を続ける。ほかにもマイク・スターンやハイラム・ブロック、ケンウッド・デナードとのギグやビレリー・ラグレーンらとのヨーロッパでのライヴなどをリリースしている。ドラッグ中毒の療養中に親交を深めたドラマー、ブライアン・メルビンとピアノトリオ形態でジャズ・スタンダードばかりを収録したアルバム『スタンダード・ゾーン』をリリース。このアルバムはジャコのスタジオ録音では最後のものといわれている。

入退院を繰り返すジャコだったが、1987年9月11日故郷フロリダのフオート・ローダーデイルに来ていたサンタナのライブを見ていたジャコは、飛び入りしようとしてトラブルを起こす。サンタナになだめられつつも会場を出て行ったジャコは彷徨う。失意のうちにたどり着いたナイトクラブ「ミッドナイト・ボトルクラブ」で悲劇は起こった。日付が変わった深夜、このクラブに入店しようとして用心棒と口論の末、乱闘となり殴打され、意識不明の重体となった。

しばらく昏睡状態が続いたが、9月21日に家族の同意のもと、人工呼吸器が外され35年の生涯を閉じた。この頃のジャコについては、日本でもジャズ誌にその健在ぶりを掲載されることがあったが、突然の訃報に世界が驚いたのは言うまでもない。

【参考資料】

著者:ビル・ミルコウスキー
翻訳:湯浅恵子
発行:リットーミュージック
ジャコ・パストリアスの肖像
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著者:ブライアン グラサー
翻訳:小野木博子
発行:音楽之友社
ザヴィヌルウェザー・リポートを創った男
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